鳩・欅・陣取り 松本義明(昭和27年卒)

 べつに落語の三題噺のつもりはない。またそんな能力もない。
 昭和41年(1966)の暮、私は山崎教授に呼ばれて、研究室の一員となったが、当時の予算の少額に加えて、3号館建物の荒廃ぶりには驚かされた。なかでも一番驚かされたのは、建物の中を傍若無人に飛び回る鳩だった。3階の廊下の角を曲がろうとすると、学生に追われて飛んできた鳩と正面衝突しそうになる。顔にでも当たっていれば、こちらも大怪我をしただろう。大切な実験材料を持っていたら、とんでもないことになる。鳩は廊下の天井裏のあちこちに棲みつき、310号室の真ん前の天井裏にも巣があるとみえ、雛の鳴き声がし、時には、雄同士ででも争うのか、天井板の隙間からゴミが落ちてくる。東側の裏階段では壁面に取り付けられた蛍光灯の狭く細長い傘の上に産み落とされた卵が落ちて割れている。朝、出勤してくると、前夜の酒宴で大騒ぎをしていた水産学科の学生たちの仕業に違いない。毛をむしられ丸裸にされた鳩の死骸が廊下に転がっている。しかも、この惨状に人々は全くの無関心。水産学科某教授室前におかれた古戸棚の上には巣がつくられ、雛が育っているが教授は知らん顔。隣の森林動物学研究室の日塔教授(故人)が鳥獣保護委員でもあると聞き、捕獲できないかと訴えてみたが、「そういう可哀そうなことはできません」と、なんとも不甲斐ない。事務部に善処方を求めてみても、無しのつぶて。およそ、やる気がない。学科の教授たちに話をしてみたところで、へらへら笑うだけ。そうこうしている間に5年が経ったが、状況は一向に改善されない。たまりかねた末に一計を案じ、二人の猛者、院生の山形・落合両君に,アルバイトに鳩の巣の撤去作業をしてくれないかと持ちかけてみたところ、ご両人とも二つ返事で引き受けるという。早速事務の用度だか施設の係長に掛けあい、なにぶん天井裏を這いずり廻る厄介なしかも危険な仕事ゆえ、手当てをはずむよう交渉し、当時としては破格の日当5,000円(当時のアルバイトの日当は2,500円ぐらい)を約束させた。作業はたしか2日を要し、巣はあらかた撤去され、鳩の侵入口となっていた天井裏の通気口には鳥小屋などに使う金網を丸めたものでふさいでもらった。お二人はまことによくやってくれたが、落合氏は二度も天井の桟から足を踏み外し、危うく落下しそうになったという。しかもそこは階段の吹き抜けの個所で、作業の前にくれぐれも無理をしないように言ってあったのだが。もし、そのまま落ちていたら、地下まで15m以上。一命を失うこと必定。後で聞かされ、こちらも命が縮む思いがした。ともかく、これは大成功。おかげで大分きれいになった。しかし、それでも、農学部の鳩は一向に減る様子がない。調べてみると、鳩は夜間、正面4階踊り場の天井から吊るされた蛍光灯の笠の上にずらりと並んで休むことがわかった。そこで、今度は助教授に赴任間もない池庄司氏をそそのかし、二人で鳩取り作戦を展開。夜になるのを待ち、先ず蛍光灯の明かりを全部消し、真っ暗にした上で、家から持参の強力ライトで一羽ずつ目潰しを食らわした。面食らった鳩はたちまち飛び立つが、暗くて飛べず、そのまま床に着地する。すかざず、池庄司氏が捕虫網をかぶせ、用意しておいたダンボール箱に押し込む。鳩の総数は17羽。たまたま獣医の解剖学研究室で大気汚染と鳩の肺の汚れを研究していた助手の F 氏に寄贈した。鳩の肺も東京のものは地方のものに比べて汚れていたそうで、F 氏はこの研究で学位をとり、他大学へ栄転していった。考えてみれば鳩に罪はなく、もとはといえば、人間のだらしなさのためで、不憫なことではあった。(この行為は厳密には烏獣保護法に触れたであろうが、すでに時効であろうし、当時は何の罰則もなかったはずである。)とにかく、これで農学部の少なくとも3号館からはほぼ完全に鳩を放逐し、廊下も安全に歩けるようになったが、養蚕学研究室の東北の一端だけは、天井裏に上がられると挨が落ちるとて、生意気な助手どもに拒否され、昭和58年の大改修までそのままに放置された。
 前述の鳩害もそうだが、助教授で赴任して以来というか、実は学生の頃から、正直のところ農学部の殺伐な風景、汚さにはいい加減愛想をつかしていたが、それでも、もうすこし何とかならないものかと、常に考えていた。それで、昭和50年であったか、学科主任の当番が廻ってきたときに、主任会議の後、学部長の松井正直教授に、3号館前に欅の並木を作ってはどうかと提案した。とにかくキャンパスに緑を増やすことは学生の情操教育にもプラスになり、研究環境の改善にも連がるだろうと主張した。松井氏からどのような返事があったか記億は定かではないが、とにかく検討してみようということであったと思う。あとで聞かされた話だが、傍らでこちらの説明を聴いていた評議員の尾形学教授(獣医学科)はひどく感心し、「松本は教育に一家言のある男だ」と云っていたそうで、照れくさいことといったらありはしなかった。
 とにかく、これが契機となり、欅が3号館の西側に,翌年は1号館・2号館の東側にと2年がかりで植えられた。欅が植えられたら、今度は事務の提案ででもあったのか、1号館と2号館の間にも植樹をという話が出てきた。小生は今も現存するヒマラヤ杉の巨木があるので、そこへの植樹は考えていなかったので、学部長から、樹木の種類について相談を受けたときは、正直なんの用意もないままに、つい東大のシンボルは銀杏だなという思いからか、「やっぱり銀杏ですかね。」ぐらいの返事をしておいたら、結局は銀杏が植えられた。欅が植えられた年の夏は、たいそうな旱魃続きであったが、事務方が事務長以下総出で水やりをしてくれていたのを思い出す。結局3年がかりで植樹が済んだ年のある朝、本郷3丁目から普段は滅多に使わないバスに乗車したところ、顔には見覚えはあったものの名前も知らない農芸化学の助手の某君から、「先生、ありがとうございました。これでキャンパスの南北の通りは欅、東西は銀杏に揃いました。」といわれ、なるほどそうかとこちらが驚いた。つまり本郷キャンパスの南端、経済学部の東側から図書館と三四郎の池の間を抜けて法学部・工学部にいたる南北の通りは欅並木で、農学部の欅もこれに連がる。また正門と赤門からの東西の通りはともに銀杏だというわけだ。また農業経済の二三の先輩教授たちからも感謝の言葉を頂戴した。しかし皮肉なことに自分の学科からの声は記憶にない。
 植えられた当時は目通りせいぜい16~17cmで、高さも2階の窓にようやく届くぐらいだった樫も30年近くたち、直径は約 50~60cmほどに、3階の建物の高さを越えるほどに成長した。 一方銀杏のほうも最初の10年ほどはヒマラヤ杉のアレロパシーのせいでもあったか、なにか成長が遅いように見えたが、最近ではこちらも建物の高さに達し、勢いを増してきている。
 研究室の手狭なことは、大学院生が増え、種々の実験器械も増えつつある最近はさらに拍車をかけているだろうが、以前からも悩みのひとつだった。後発の研究室をまかされた山崎教授ももちろん色々苦労されたに違いない。小生が助教授に着任したときは、学生の頃にはなかった飼育室が地下に設けられ、また別館でも実験が行われ、310号室のとなりの309号室が、害虫研のものになってはいたが、地下や別館との往復などなど不便でもあった。また次第に大学院生も増え、いよいよ手狭になってきたときに、上手い具合に,農業工学科の新館が完成し,1号館の地下が空いた。他方、3号館の319号室は一週間に1回、4時間かそこら、農生の学生実験に使うだけで、なんとも無駄な不合理の存在に思えていた。そこで「第1部」にも述べたような陣取り作戦に出て、首尾よくわがほうに319号室の2/3を手に入れ
ることができた。そのためには、各講座の専用面積を予め調査し、いかに害虫が不利であるかを強調したことはいうまでもない。また308号室は水産学科が管理していたが、使用している様子がなかったので、学部長に直接談判の結果、別館と交換にこちらの専用にしてもらった。という次第で、わが陣地の拡大・効率化に務めてきた。週に1回使うかどうかの学生実験室を狙うのは、我ながら上手い方法と思い、これに味をしめ、同様のことを東大停年後に赴任した東北大でも早速実践し成功したが、学科のなかには警戒する人もいたのかもしれない。
 このようなことばかり読まされると、外の実社会で活躍されてきた人たちには、一体大学とはなんだね、なんとも不思議な世界としか目に映らないであろう。しかし、私も大学を去ってすでに十数年、大学も色々変わりつつある。
 鳩害でも欅のことにしても教官が構内の環境等に口を出すことを潔しとしない、教官はただ研究と講義さえやっていればよい、事務も言われたこと以外のことには口を出さないというおかしな伝統と風習のなせる結果であったとしかいいようがない。もっとも、教官が研究・教育に専念できてこそ、ほんとうの大学だろうし、それが理想ではあるが。現実はなかなかそうはいかない。 ことに2004年からは「独立行政法人」に組織変えされ、学部間の競争も激しくなってきそうで、人々の意識も変わらざるを得ないのではないか。長年親しまれてきた学科の事務室も廃止され、学部の事務部に統合されようとしている。まずは縦割り行政からの脱却ということだろう。 これからの学部の、そして研究室のますますの発展を期待してやまない。

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