第一期 (1949-1965) 楢橋敏夫

1949年から1965年までの16年間の主な教室の研究業績は,殺虫剤の作用機構に関するものである。作用機構といってもいろいろな分野があるが,教室が世界中の殺虫剤分野のリーダーとして貢献したのは,殺虫剤の神経機能に対する作用機構といえよう。大部分の殺虫剤は強力な神経毒であることは現在では広く知られており,殺虫剤の生理機能に対する作用といえば,神経系に対する作用が最も重要なものと考えられている。当時世界中で行われていた殺虫剤作用機構の研究は,主に殺虫剤の解毒と活性化に関するもので,神経機能に対する作用を調べていた研究室は日本は勿論のこと世界中でも数えるほどしかなかった。教室での神経毒作用の研究業績は,ユニークなものとして論文を通して世界中で広く知られていた。

教室のあけぼの時代(1949-1951)

害虫学研究室は独立の講座ではなく,他から助教授のポストを借りて出発した。1947年に山崎輝男助教授が当時西ケ原(北区)にあった農林省の農事試験場から迎えられ,他に技官1人という小さな研究室として出発した。最初の学部学生(旧制)は阿部登(旧姓木村(故人))であった。1949年4月から,東大農学部獣医学科を1948年に卒業した楢橋敏夫(旧姓石井)が大学院(旧制)学生として加わった。楢橋は山崎助教授に研究テーマについて尋ねたところ,即座に「現在色々な新しい殺虫剤が開発されつつあるが,作用機構についてはほとんど何も知られていないので,それを調べろ」と指示された。これは当時としては将来性に満ちたすばらしいテーマで,山崎助教授の慧眼により,害虫学研究室での十数年にわたるこの分野の研究が始められた。

さてすばらしいテーマは決まったものの,日本には当時この分野の専門家は1人もおらず,どこから手をつけてよいか全く見当がつかなかった。山崎助教授は長年の農事試験場での経験から,殺虫剤および害虫駆除の実際面については非常にゆたかな経験を持っておられたが,生理学者でも薬理学者でもなかった。

農学部の主な建物であった一,二および三号館は戦火を逃れたものの,その裏にあった農学部図書館を含めた木造の建物は全部焼け落ち,研究室にはほとんど何の器具もなかった。戦後間もないことなので,外国との接触は無いに等しく,欧米の自然科学の専門雑誌は第二次大戦のはじまった1941年以降全く途絶えていた。しかし幸いなことに米国の好意で東大図書館と日比谷の図書館に最近の欧米の雑誌が送られてきていたので,そこに通って文献探しが始まった。ようやく見付けたのは,昆虫の背脈管の拍動を顕微鏡で見ながら調べたものである。幸いにも研究室には,水槽,顕微鏡,ストップウオッチ,それに半分こわれたthermostatはあったので,いろいろな殺虫剤の背脈管活動に対する影響を調べることが出来た。この結果は楢橋が1950年春の応用動物学会,日本応用昆虫学会の合同大会で口頭発表したが,当時の学会にとって全く新しいアイディアとして,非常な注目を浴びた。この論文は1950年に日本応用昆虫学会誌に発表された[1]。しかし背脈管の拍動数を数えただけでは不十分なので,拍動を記録して解析しようということになり,light leverが考案されて感光紙に拍動を記録することが成功した[2-5]。その間,1951年から新しい助手のポストが研究室に加えられて楢橋が任命され,小さいながらも助教授,助手,技官という形が整った。

この期間の研究室の学部(旧制)学生のうち,阿部(木村)登('50 卒)はニカメイチユウにDDTなどの殺虫剤を食べさせて,消化管の組織学的な変化を観察していた。さらに研究室には岩田俊一,大塚幹雄,鈴木良一,関口計主('51 卒)が加わり,活発な研究が始められた(以下人名の後の'51~'58は卒業年次を示す。)

神経生理学および毒物学の始まり(1951-1958)

このような研究中に,殺虫剤は神経毒なので神経に対する作用を調べる必要性が痛感され,準備が進められた。幸いにもおよそ20年ほど前に林泉という生理学者が農学部で使い,そのあと畑井直樹(動物学教室,鏑木外岐雄教授)が卒論実験に使った横川電機製の電磁型オッシログラフが埃をかぶっていたのが見つかった。楢橋は獣医学科の学生時代に生理学の講義を受けた東大医学部生理学教室の若林勲教授のもとで,文字通りイロハのイから始まる電気生理学の手ほどきを受け,曲りなりにも昆虫神経を使っての実験が始められるようになった。とは言え,当時は市販の器械,増幅器などというものはなく,電気器具に詳しい鈴木良一の助けでようやく手製の増幅器が出来上がった。1951年から1958年にかけての数年間は,文字通り世界に先がけた殺虫剤の神経機能に対する作用機構の研究が進められ,また当時は毎年数名の学部学生が来て,非常に活発な研究活動が行われた。後に述べるように,殺虫剤の酵素に対する影響やその他の研究も,学生とともに進められ,電気生理の実験は楢橋一人で行われたとはいえ,研究室全員が協力してそれこそ天にも登るような気持ちで活発な研究が進められた。毎週の研究室での抄読会ではJournal of Economic EntomologyやScienceなどに毎号のように掲載されていた殺虫剤関係の論文が話題に上った。殺虫剤作用機構の当時の欧米での傾向は,大部分が殺虫剤の代謝,特にDDT,有機燐剤,カーバメイトの代謝であった。神経に対する作用を調べていたのは,米国,英国,オランダ,フランスのそれぞれ一二のグループだけであった。日本の他の大学でのそのような研究は全く皆無であった。

この期間の研究室での業績は殺虫剤に関するものが多く,いくつかに大別できる。(1)DDTのゴキブリ神経に対する刺激作用の解析[6-8,11,13,23,26]。(2)DDTは低温において殺虫力が高いが,神経のDDTに対する感受性が低温で非常に高くなるのが唯一の原因であることの証明[12]。(3)γ-BHCが主にシナプス伝達を促進して昆虫にhyperexcitationを起こさせることの証明[14]。(4)デイルドリンもγ-BHCと同様な作用機構を示すことの証明[33]。(5)DDTが神経の興奮性を増大させる最も重要な機構は,活動電位に続く後電位が大きくなりまた長引くためであることの証明[24,25]。(6)種々な殺虫剤の酵素系に対する作用の研究[19-21,31,32]。(7)神経の感受性が殺虫剤抵抗性に重要な働きをしているという電気生理学的な証明[34]。(8)土壌中のダニの分類と生態[27-30]。これらの研究成果のうち(2)(3)(4)(5)および(7)は世界に先がけた最初のもので,それぞれmilestoneを打ち立てたものといえる。特に(5)の研究成果は後年楢橋が米国に移ってからvoltage clamp法によって行ったDDTおよびピレスロイドのNa+ channelに対する作用機構の基礎をなす重要な発見であった。

また(7)の殺虫剤抵抗性の機構としての神経生理学的研究が残したimpactは大変なものであった。少なくともある種の抵抗性昆虫では,解毒作用の増大が重要な原因であることは多くの研究者によって証明されていたが,作用点の感受性の低下も重要であることの世界最初の電気生理学的証明が研究室から発表された[34,62,70]。この研究結果の重要性は後に多くの研究者で明らかにされたピレスロイドに対するkdr,super kdr strainが,ピレスロイドの作用点である神経膜のNa+ channelのmutationによって起きることによってよく示されている。研究室でのこの研究は当時大阪大学に居られた塚本増久と協同で,イエバエ神経のγ-BHC抵抗性geneの同定まで進められた[70]。

この時期の研究室には,大勢の学部学生(旧制と新制)と大学院学生が入り,非常に活発な研究の雰囲気に満ちていた。1952年卒業生として草野忠治,後藤昭,須甲幹也,早川充,深見順一,松本義明,1953年卒業生の岡本哲夫,兼久勝夫,腰原達雄,内藤孝道,永井洋三,間瀬定明,山口晋平,1954年卒業の篠原寛,1955年卒業の安東和彦,坂井道彦,三橋淳,1956年卒業の池庄司敏明,内田晴夫,1957年卒業の小林主一,中津川勉,橋本康,松村文夫,1958年卒業の青木淳一,石橋信義,笠井勉,是永龍二の諸氏が居られた。

草野忠治('52)は卒論として殺虫剤のアズキゾウムシのカタラーゼに対する作用を調べた。深見順一('52)はロテノーンによるグルタミン酸脱水素酵素の阻害作用を発見した。これは世界最初の研究成果で,ロテノーンはこの作用のために実験室でchemical toolとして広く使われている。深見はこの一連の研究により害虫学研究室の最初の農学博士を授与された(1958)。間瀬定明('53)は昆虫血液中のNaおよびKの含量を測定した。草食性昆虫の血液ではNa/K ratioが哨乳動物の逆で,KがNaよりも多いのが特徴である。三橋淳('55)はカイガラムシの生死鑑別法を発明した[22]。カイガラムシは殻をかぶっているので、殺虫剤施用に伴う生死の鑑別が困難であるが,KOH溶液のなかでカイガラムシをすり潰した時の液の粘度の違いから簡単に生死を区別することが出来た。坂井道彦('55)は殺虫剤のコリンエステラーゼ阻害作用を研究した。池庄司敏明('56)はイエバエに対する殺虫剤の処理法による効力の差を調べた。青木淳一('58)は日本産オニダニ科の分類を研究したが,その他土壌中のダニの分類と生態についても精力的に研究を進め,いくつもの論文を発表した[27-30,37]。是永龍二('58)はthimetとdisystonの殺虫作用機作を比較した。

酵素系に対する殺虫剤の阻害作用(1951-1960)

殺虫剤は化合物であるから,酵素系に働くに違いないという当時の殺虫剤分野としてはユニークな考えに基ずき,前述のように研究室の学生と協力して大々的な研究が1951年頃から始められた。深見順一('52)はワールブルグのマノメーターを使って酸化酵素,松本義明・早川充('52)はツンベルク管を使って脱水素酵素,草野忠治('52)は滴定法を使ってカタラーゼを,またのちには坂井道彦('55)はコリンエステラーゼを調べた。同じ頃カナダのUniversity of Western OntarioでAnthony M・Brownのグループが同じような実験をやっていたことがあとになって論文を通してわかった。いずれの結果を見ても、殺虫剤による多少の阻害作用はあるものの,期待されたほど面白い結果は出なかった。後年になってわかったことだが,この僅かな阻害作用はほとんど全部がin vitroでのartifactであることがわかり,研究室からの結果は学会では発表されたものの論文にはならず恥をかかずにすんだ。唯一の例外は深見順一('52)のロテノーンによるグルタミン酸脱水素酵素の阻害で[19-21,31,32],世界的な発見として名を後世に残した。

細胞内微小電極法の導入(1956-1965)

細胞内微小電極法は1950年にNastukand Hodgkinによって活動電位の記録に使われて以来,強力な電気生理学の方法として現在でも広く使われている。細胞内に先端直径が≦1μmほどのガラス毛細管を挿入することによって,膜を介しての静止電位,活動電位を直接測定することが出来,電気生理学にquantum leapをもたらした。害虫学研究室でも1956年ごろからこの方法を導入して,殺虫剤の研究に適用された。

DDTによって活動電位に続く後電位が増大延長し,反復興奮を起こさせることは,我々の初期の細胞外電極を使っての実験で観察されていたが[7],細胞内微小電極を使ってこれが完全に証明された[25]。またDDTおよびアレスリンによるゴキブリ巨大神経線維の後電位の増大作用も,細胞内微小電極を使って解析された[47,48,56,60,61]。ゴキブリ神経線維の静止電位,活動電位,それに色々な電気生理学的な性質も細胞内電極法を用いて調べられた[36,41,42,46]。後年楢橋が米国に移ってからvoltage clamp法によって証明したDDTやピレスロイドの作用機構の根底をなすものとして,極めて重要な意味を持っている。DDTとピレスロイドは神経のNa+ channelを長く開かせることによって異常興奮を起こさせることは,現在では世界中で広く認められ,あらゆる教科書に紹介されている。

フグ毒テトロドトキシンの作用機構(1959-1960)

殺虫剤以外の研究室での業績で,世界的に有名になったのはフグ毒テトロドトキシン(TTX)に関するものである。当時東大農学部獣医学科の薬理学教室の助手(のちに教授)をしていた浦川紀元(楢橋の同級生)が,マルトキシンの作用を古典的な方法で調べていた。楢橋の使っていた細胞内微小電極法でやれば作用機構がより明確にわかるだろうというので,協同研究がカエルの神経筋標本を使って行われた。その結果,マルトキシンは筋肉のendplateをクラーレ様に阻害することがわかり,Amer. Jour. Physiol. に報告された[50]。この研究の途中でTTXも同様な作用があるのではないかと考え,カエルの筋肉で調べたところ,全く違う機構が判明した。簡単に言えば,TTXは筋肉のNa+ channelを抑制して麻痩を起こさせることがわかり,Amer. J. Physiol. に発表された[49]。しかしこの実験はvoltage clamp法によるものではないので,結論は100%完全とは言い切れず,のちに楢橋がデユーク大学医学部に在職中にvoltage clamp法によって証明したもの(Narahashi et al. J. General Physiol. 47: 965-974,1964)が非常なセンセーョンをまき起こした。理由は,TTXは他のchannelには全く作用せず,Na+ channelだけを選択的にしかも低濃度で阻害するため,実験のためのchemical toolとして色々なchannelの研究に広く使われはじめたからである。現在でもTTXは広く愛用されており,channelの研究には欠かせないものとなっている。上記のJ. Gen. Physiol.の論文は、最も多く引用された論文の一つとしてCurrent ContentsのCitation Classicに採用され(1984),害虫学研究室から始まったTTXの研究の裏話が書かれている。害虫学研究室で最初にTTXの研究が、その後の楢橋の生理、薬理分野の世界学会でのデビューに大きく貢献したことは広く認められるところである。

楢橋は1965年4月をもって東大の助手を辞し,米国のデユーク大学医学部の生理薬理学科のAssist. Professorとして新しいCareerを始め,以後,害虫学研究室での電気生理学的手法を使っての殺虫剤作用機構の研究は途絶えた。

害虫学研究室の業績が日本国内をはじめ,当時世界中で認められていたことは,

次のことによっても明らかである。

(1) 山崎および楢橋(石井)が殺虫剤の作用機構の研究業績により共同で応用動物学会・日本応用昆虫学会の第2回の学会賞を受賞(1955)。

(2) 殺虫剤作用機構研究のお互いの連絡を促進するため,オランダの学者がInsect Toxicologist lnformation Service(ITIS)という小冊子を毎年一回発行して世界中に配布した。これには作用機構研究の世界中の主な研究室が紹介され,研究テーマ,人員が含まれている。当時は世界中のcommunicationが非常に限られていたので,これは大きな助けとなった。害虫学研究室も含まれていた。

(3) 1956年に当時World Health Organization(WHO)の殺虫剤関係のofficerを勤めてAnthony M. Brownが視察のため来日し,各地の殺虫剤作用機構関係の研究室を見て回った。彼は日本でも多くの優れた研究が行われていたことを発見したが,みな日本語の論文なので海外には知られていないことを痛感し,いくつかの選ばれた論文の英訳が,WHOと京都大学の協同でJapanese Contributions to the Study of the lnsecticide-Resistance Problemという題で出版され(1957),世界中の関連研究室に広く配布された。害虫学研究室の12の論文も採用されている[総説,著書,その他の項参照]。これにより我々の研究室の業績が世界中に知られるところとなった。

(4) International Symposium on Insecticide Resistanceがインドのニューデリーで開かれ,山崎,楢橋,深見が招待されて参加し,論文を発表した(1958)。

(5) InternationalCongressofEntomologyがイギリスのロンドンで開催され,楢橋はSymposium SpeakerおよびSymposium Chairmanとして招待され,発表した(1964)。

(6) International Symposium on Newer Properties of Squid Axonsが米国マイアミで開かれ,楢橋は東大在職中にSpeakerとして招待された(1965)。

当時は日本から国際学会やシンポジウムに招待されるのは極めてまれであった。