害虫研究室草創の頃 昭和26年卒業 岩田俊一

私は昭和24年5月頃(大学2年生)に害虫研究室のドアを叩いて、山崎先生の門に入った。第2回生であった。害虫研究室50年史の作成に当たっては、その草創の頃の状況を思い起こしてみたいと思う。当時大学院特研生(?)として楢橋(当時は石井)敏夫さんがおられたので、楢橋さんも同じことに触れられるかもしれず、しかも、私に記憶違いがあれば、食い違う内容になるかもしれない。その時は末席にいた学生の記憶違いだったということで、ご容赦願いたい。

私が先生の門に入った時、山崎先生は養蚕教室の助教授で、教授は渡辺勘次先生が定年で退職されたまま後任が決まっていなかった。研究室の学生には3年生に鮎沢啓夫さんと木村(後阿部)登さんがおられた。(深見順一さんも在籍されていたが休学中)。2年生は私の他に大塚幹雄、鈴木良一。関口計主の3氏がいた。はじめ私は鮎沢さんの部屋に机を与えられ、一人前になったようでいい気分であった。大塚君は森林動物の実験室の一部で実験をし、鈴木、関口両君は確か木村さんと同室だったようだ。養蚕教室の所属だったから、最初の年の秋ごろ、農学部の地下食堂で養蚕教室の先輩も出席されて、渡辺先生を囲んで会が開かれたことがあり、私なども出席させてもらえた。どういう名目の会だったかは記憶は無いが、有賀久雄先生(その時は育種学教室の助教授)も出席され挨拶された。(このごあいさつの中で、なぜか「昔の大学教授の生活は今よりずっと裕福であった。渡辺先生は女中を使っておられたが、私など家内を女中代りに使っている」というところだけ覚えている)。出席の先輩では熊本、木村、仁木、入戸野さんなどがおられたことを覚えている。それから、養蚕教室の先輩も出席され、石森先生の送別会(記念品贈呈の会)にも出席した記憶もある。

このように草創の頃の山崎研究室は養蚕教室所属だったのである。昭和24年の終わりごろだったか、あるいは25年に入ってからだったか確かでないが、養蚕教室の教授に有賀先生が来られる。その際育種学教室で解雇を使って研究している学生も、先生に従って育種学教室から養蚕教室へ移ってくるらしい棟情報が入った。害虫研究室のわれわれは一時大変に深刻な気分になった。「害虫研究室はどうなるのか、我々は一体どうすればいいのか」という悩みであった。まあしかしそんなことは我々が心配したって詮ないこと。結局山崎研究室は養蚕教室内で害虫研究室を名乗り、教室費の配分も受け、学生もそのまま害虫の研究を続けるということで、我々も安堵して3年生へ進むことになった。その際部屋替えがあり、私はそれまでの部屋を出て他の3人と同室となり、当時無人だった生理実験室を大掃除して、大塚君はそこで実験することになった。そんなわけで、昭和30年につくられた「農学科卒業者名簿」には、出身教室が鮎沢さんは養蚕、木村さんは害虫とされている。

ちょっとだらだら書いたが、こういう事情で、害虫学研究室のできた年は昭和25年(1950)ということになるわけであろう。