昭和24~27年の私 後藤昭

当時、私は、今は無くなりましたが、田無の農場内にあった農学部の学生寮に住んでいました。先輩には、吉武さん(養蚕学の吉武成美教授)がおられました。

吉武さんは、蚕の餌の桑の葉をリュックにつめて、農学部まで通っておられました。一級上には関口計主さんがおられ、私は関口さんから害虫学研究室のお話を聞いて、害虫学研究室へ入る決心をしました。関口さんは英語がお好きで、目白にあったロゴス教会の日曜バイブルクラスにさそっていただきました。そこで私は、アメリカ英語の発音を覚えました。寮での同室者は、はじめは園芸の水上氏で、その後は作物の西田君でした。戦後のこととて、自活のための畑仕事もあったように記憶しています。

私はアルバイトをやっていました。教科書出版会社で、国語教科書の原稿の謄写版切りです。それで、教室では、いつもクラスメートに会えるというわけにはいきませんでしたが、害虫学教室のセミナーでは、同級の早川、草野、須甲、松本、山口の諸兄とも話し合いました。セミナーでは、当時としては情報が少なかったソビエート連邦のロシア語の文献を紹介しました。紹介した論文は和文抄録とし、山崎先生のお骨折りで学会誌等に掲載していただきました。

卒業論文は、今は幻の害虫であるニカメイチュウの「はい子発育」(外部・内部形態の変化)で、もともとは山崎先生ご自身が興味を持っておられたこととか。内部形態の観察ではミクロトーム切片をつくりますが、当時研究室の助手をしておられた楢橋(旧姓石井)敏夫先生が、ミクロトームの使い方や染色の方法を懇切に教えてくださいました。卒論の年は山崎先生のご配慮で、三号館の裏にあった古い建物に、草野君と二人で住みついて作業を行ったものでした。卒論は、雑誌「応用昆虫」に、その編集幹事であった一年先輩の岩田俊一さんのお世話もあって、登載されました。

卒業と同時に私は当時の農林省農業技術研究所(農技研)に入りましたが、その最初の日は、山崎先生が農技研まで私を連れて行ってくださいました。というのは、当時、先生は東大と農技研の害虫防除第一研究室長を兼務しておられました。農技研の昆虫科には、すでに先輩の阿部(旧姓木村)登さん(故人)、岩田俊一さん、大塚幹雄さんがおられ、心づよい限りでした。