研究室の思い出 早川充 (昭和27年卒)

害虫学研究室が発足して五十年が経ったとのこと、発足間もない時の学生であった小生、年を重ねたわけである。

山崎先生のご指示で、ドイツ語の殺虫化合物の作用機作に関する小冊子の翻訳をしたことが縁で研究室に入れていただいた。(編注:早川氏は入学試験のドイツ語の成績が須甲氏とともに群を抜いてよく、このことを山崎教授は覚えておられたのである。)当時は山崎助教授、石井(楢橋)助手の構成である。ゼミで最初に先生から渡されたテーマは、Journal of Economic Entomology所蔵の、当時としては新しいアイソトープP32を使った有機燐化合物の昆虫体内での代謝追跡であったように思う。辞書と首っ引きで内容の理解に苦心したことであった。二年の夏休み、先生から現場研修を進められ、草野君とともに、長野農試の関谷一郎先生のお世話になった。約二週間先生宅に泊まりこみ、まさに“月をいただいて出で、星をいただいて帰る”の日々を、メイチュウ、ドロオイムシに対するBHC等の効果を試験して過ごした。被害調査が抽出法でなく、全量主義であるのに音を上げたものである、神経に対する殺虫化合物の作用を見るということで、赤羽の荒川土手に須甲君とトノサマバッタを採りに行ったこともある。近くで遊んでいた子供たちが面白がって手伝ってくれ、今では考えられないことであるが、たちまち、飼育箱数個に一杯になった。ただし、このバッタを使った実験は小生に関する限り、モノにならなかったが。卒論は松本君と組んでツンベルク管による昆虫脱水素酵素に対する殺虫化合物の作用を見ることであった。実験は手伝ったものの、食うためのアルバイトが忙しいとの理屈で、一切の考察、まとめは彼に一任、英文の卒論は無事通過したのであった。いずれにせよ、研究室の生活は楽しいものであった。先生は集ってワイワイ駄弁るのがお好きで、ゼミのあとなど、そのままコンパに移行するのであった。饅頭や煎餅は貧乏学生の胃の腑にしみ渡った・・・が、あまり金を払った記憶がない。

卒業して日産化学の研究所に入ったが、前記の如くサボりが多かったに拘らず、研究室が恋しくて理由をつけては通ったものであった。昭和30年ハワイ大学準教授マーチン・シャーマン博士がフルブライト研究教授として研究室に来日、山崎先生からご指名いただき彼の在日十ヵ月間実験助手を務めることになった。彼はDDTの遅発毒性に興味を持っており、ニクバエを使い、各種の界面活性剤を使ったDDT水和剤の殺虫性を比較することになった。データはかなりの量になったが、結果はシャーマン氏が帰国後まとめ二人の連名で専門誌に発表した。思い出すのは濃度やLC50等の計算である。Blissの計算式が一般であったが、数あるデータ処理には面倒きわまるので、何かもっと楽なものはないかと探したところ、「Finneyの図解法」なる簡便法を見つけ、Blissを主張するシャーマン氏を説得して、この簡便法でLC50を算出した。小生が簡単な代数で解を出すと彼から感心され逆にこちらが驚いたことである。彼は算術で計算していたのである。米国の専門教育の偏重には呆れたことであった。米国人の例にもれず彼は当方の収入に興味を持った。小生の月給40ドル弱(1ドル360円)ぐらいに対し彼の給料は500ドル。おまえはどうやって食っているのかと不思議がられた。当時の日米経済力格差はそのようなものであったのである。シャーマン氏は手製の微量注射器を持ってきていたが先生はこれを基本にして理化楽屋に改良型を作らせた。これを購入して会社に持ち帰った。たまたま農薬原体を企業化する時に当っており当時の化学分析では純度が出せずにいたのを、これを使った生物検定で純度を正確に算出し化学屋を驚嘆させたのは留学の価値ある副産物であった。但し報告が遅きに失したと重役から大目玉を食ったおまけつきであったが・・・。

かくして40年以上を農薬に関する仕事に携わることになった。往時茫々、階前の梧葉はすでに落葉の時を迎えつつあるが、害虫学研究室に学んで、良き時を過ごしたものと感謝に堪えぬところである。

先日、農学科の同期の会で、東大柏キャンパスを見学する機会があったが、農学を含む生命科学の発展とそのスピードに改めて驚き、自分が過去の人間であることを再認識したことであった。現役諸兄のご健闘と害虫学研究室(今は名称が異なるのであろうが)の発展を願い期待するものである。